昭和四十一年七月二十二日  夜の御理解


悩みを持っておる人間の助かり。
 あらゆる宗教が、色々な角度から説いておりますけれども、大体皆んな同じような事を言っておると、云うような風に思うんですけど、今日、あの、久留米の古賀さんが、水天宮さんに石庭がこう、この頃からでけております。
 よっぽど有名な人が造ったというので、是非一辺あの-、見てくれと云いよりましたから、今日ちょっと寄らしてもらいました、それから「        」だから、あの、すぐ近所ですから、あの梅林寺さんの石庭も、ついでに見ろうと云うて、あの-見せて頂いたんです。
 あの梅林寺さんに参りましてから、あすこの入り口に、黒板に書いて御座います、それがやっぱり、そんな事を書いて御座いました諸々の悩みを捨てる為には、諸々の欲望を捨てよと書いてある。
 お互いの悩みというものをから、解脱するためには、矢張り諸々の欲望というものを、捨てなければならないと。
 我情我欲を離れて、真の大道を開き見よ、我身は神徳の中に生かされてある、という、そういう この喜びというものは成る程その我情我欲を捨てなければ、矢張り頂けないものゝようであると、ところがです、それをどういう風にして取るかということを、仲々問題になるのですね、私そんな事を思い続けて、帰らしてもらってから、誰の本でしょうか、ちょっとあの開かしてもらつて、ちょっと見せて頂いておりましたら、私が、その思っておる事の、これが答だなと思うような事が、書いてあった。
 誰の言葉か知りませんけれど、そこんところを、よく書いてあるのがですね、精進したぐらいでね、努力したぐらいな事では駄目だと、断念せよと書いてある。
 ハハ-これだなあと思ったですね、私ね、例えば好きなものを断つ、と、こういうような事を申しますけれど、ね、その好きなものを断つ事に、精進するような事では、本当な事は出来やしません、何時も苦しいばっかりです、そして出来たり出来なかったりです、ね、けれども断念したら、いゝですね矢張り、もういらんと、こう思い切る事なんです。 ハ- こげなものがあっちゃ-出来ん、こげなものがあっちゃ-出来ん、こげなものがあっちゃ- 色んなおかげは受けられない、と、その事に取り組んで、精進しとるよう事では駄目だと。
 確かにそうです、必ず失敗です、精進してきついです、ね、だから断念せよと書いてある、私は今日、その心ん中に思い続けて居ったその事が、神様は、こんなしてからその神の、その言葉のような御教のような事を、誰かがいっておる、それが本のこの一節にですね、沢山の文字の中に、そこんとこが目に入った、ね、成る程、精進したっちゃつまらん、努力したっちゃぐらいな事じゃ、出来る事っちゃないね、精進、努力じゃない、ね。
 断念しなければならん、思いを断てと云う事、こりゃま、成る程そう云うて見れば、自分の修行時代の事思うて見りゃですね、もうその こうはせんぞ、あゝはせんぞというような事を、もうせんとこう断念してしまっておる、ね、ですから例えて云うならば、火の中を渡る、禅の言葉じゃないけれども、涼しいというた様なね、苦しい中にでも幸せを感じれる様なおかげを、私共はそれを本当に、この頃堕落してしまっておる。
 御結界奉仕さして頂いて、ま、紋付袴付けて、こうしておる時にはです、それはやっぱり断念しておるからね、やはりそこに涼しさにも似たような、有難いものと頂くのだけれど、さあ一度あちらへ下りると、もうそれに頼られない、こげな事ちゃいかんと思って、精進しよるけれども、精進ぐらいな事では、とてもおぼつかない。出来る事じゃない、というような事を思います。
 も、本当に断念する事だと云う事ですね、お互いが様々な、いや悩みというものを、苦しみから解脱する為には、諸々の欲望というものを捨てよ、とこう ね、確かに私は、それはそうだと思う、信じます。 その欲望を捨てたらそこに、我身は神徳の中に生かされてある、喜びの体験も道も開けてくるんです、けども、それがどうしてその諸々の欲望を取るか、という事になつてくるんですけれども、只それに精進しよるという様な事では、なま、出来る事じゃない、それこそ生易しい事ではないのだけれども、断念すれば成る程出来るんだと、いう事ですね。           どうぞ。